仲のいい友人のご家族の不幸があったと朝連絡があった。
何も手がつかない。
だからシフォンケーキを食べながら食パン焼いたり、間に合いっこないのに家を出発前に子供のお風呂入れをかってでたり。忙しく動いてみた。
憂鬱だ。何が憂鬱かって、どうしてあげることもできない悲しんでいる友人を見たくないというか。
幼稚園の年長から小学校の低学年の頃、すごく死に対して恐怖を感じていた時期があった。
みんな“いま”の状態で生活が続けばいいのに、と。
親は親の年齢で私は私の年齢ですれ違った人はすれ違った人の年齢で一生続きますように、と。
年齢が変わらないで一生というのもまた矛盾しているのだが。
通学途中のバスセンターの黄色と白の床のタイルで、黄色のタイルから落ちないで信号から信号まで歩けたら今日は誰も死なない!とか。
帰り道も成功したら一か月誰も死なない!とか。
そんなことを考えていたなぁ。
なんでそんなに死が恐怖だったのかは分からないのだけど。
丁度その頃、まんがで伝記を読んでいて、野口英世とか、二宮金次郎とか・・・、途中母親の死などを挟んで、最後は本人が死んでしまう。読む本みんなそう。伝記だからそうに決まっているのだけど、mihoboshi少女は「どれもこれもなんなんだぁ~涙」と読み終わった日の夕飯は少し残すほどだった。
そんな昔を思い出しながら会場に向かった。
そこにいた喪主の友人は『強い男』で、友人でよかったな、と思った日だった。